牛の病気『ツクヒ(つぐい)』という病気とは?

 江戸末期に刊行された牛の医療ハンドブック『牛書』の第16番に『ツクヒ(つぐい)』という、現代人の我々には全く聞き覚えのない牛の病気名が登場してきます。そのツクヒの症状はどの様なものか?と読んでみると、『この病気は意識があるのに脚が萎えて立てない。冷えが筋肉にとりつく病気である。(此病、気心よくすネたたず、ひゑ・すじけのわずらいなり)』と、ただ簡潔に書いてまります。そうです、ここでも第5番『痿越(みたて)』に続き、起立不可の病気を紹介しています。そして例によって、治療法は、木瓜(もっこう)・人参・肉桂(にっき)・当帰(とうき)・独活(うど)・桑寄生(そうきせい)・牛膝(ごしつ)等といった、現在でも利用されている生薬を交ぜ合わせ「気清湯」として煎じて与えよ、と漢方薬治療法が書いてあります。

 

 現在の酪農および繁殖牛でも、病気による起立不可というのは、誠に怖ろしいもので、巨体な牛が自力で立てなくなったら、淘汰処分という悲惨な末路しか残っていません。牛も哀れですが、飼育している生産者の方も、大事な利益(牛乳・肉)を供出してくれる資産を失う事になるので、牛の淘汰処分は、生産者の皆様にとっては大きな損害になるのです。
 『牛書』が出版された江戸時代、それどころか昭和初期までは、牛は食用ではなく、農耕などを行う貴重な労働力でした。所謂、「使役牛」と呼ばれる牛です。よって、大事な労働力を提供してくれる牛が、病気で起立不可となってしまうのは、やはり当時の飼育者の方にとっても、かなりの痛手であったのです。しかし、この牛が起立不可になってしまう病気『ツクヒ』の症状を書いた文は、あまりにも簡潔すぎます。また『冷えが筋肉にとりつく病気』とは何か?我々も長時間、同じ姿勢になると筋肉が凝り固まり、筋肉の痛みを感じますが、牛の筋肉痛の類か?と筆者は、最近まで(実はこの記事を書く前まで)思っていましたので、インターネットで、『ツクヒ(つぐい) 病気』というキーワードで検索してみました。そしたら、筋肉痛よりも相当深刻な病気だったのです。

牛の病気『ツクヒ(つぐい)』とは破傷風だった!

 実は、『ツクヒ(つぐい) 病気』の単語でネット検索する直前まで、「適当な答えを与えてくれるサイトが有る可能性は低いだろう」と筆者は勝手に思い込んでいましたが、何とツクヒについて紹介しているサイトがあったのです。(このサイトを見つけた時は、嬉しかったです)
 そのサイトの名前は、(公社)茨城県畜産協会が発行している、機関紙『畜産茨城』(URL:http://ibaraki.lin.gr.jp/chikusan-ibaraki/index.html)の少し前に発行された平成20年3月号内に、茨城県獣医師会 会員 諏訪綱雄先生が執筆された『家畜感染病の病名は時代によって変わる』という記事が掲載されていまして、現在でも存在する多種の家畜感染病の歴史やそれらの病名の変移、感染経緯などが、表などが用いられ、解り易く記されており、とても素晴らしい記事内容となっております。そして、この記事内項目1番「古い時代から現在まで使用されている病名」で、「つぐいは、江戸時代後期の『破傷風』の呼称であった」と諏訪先生は、書いておられます。

 

 『ツクヒ(つぐい)は破傷風』、これは筋肉痛などいった安易な神経痛ではなく、死活問題に関わる深刻な感染病です。『牛書』に書いてあるツクヒの症状を思い出してみて下さい。そこには「牛は、意識があるのに脚が萎えて立たない」とありますが、これは破傷風と全く同じ症状(歩行障害・手足の筋肉硬直、その割には、罹患対象動物の意識鮮明)であります。更に『牛書』は、江戸時代末期に成立した書物ですので、破傷風がつぐいと呼ばれていた時期と丁度重なり合っています。当時の牛は、重複いたしますが、農耕などの使役牛として利用されていたので、農耕作業時に、田畑で肢などを怪我をし、土壌中に生息している破傷風菌が傷口から牛体内に侵入し、破傷風(つぐい)を発症していたと思われます。
 牛書では、破傷風の症状を正確に書いていますが、当時では流石に、破傷風の発症原因が病原菌による神経障害である、とは判らなかったのは確実で、『冷えが(牛の)筋肉にとりつく病気』という何とも抽象的な書き方をしています(確かに筋肉が冷えた様に硬直して動かなくなる感染病ですが)。病原菌の知識も無く、当然現在の様にワクチンが無い当時の漢方薬や鍼灸を基盤とした獣医学知識では、病原菌撃退は不可能という限界を、つい感じてしまうのですが、現在の牛の破傷風感染は皆無になったかと言えば、これまた違うのであります。

 

 農林水産省が公表しているデータ『届出伝染病発生累年比較(1937〜2015)』に拠ると、破傷風に感染した肉牛頭数が、届出のみで、1971(昭和46)年〜1975(同50)年で206頭もいます。そして、医療が発達している現在に近付くと同時に、破傷風に感染した牛頭数が減少したかと言えば、決してそうではありません。2011(平成23)年〜2015(同27)年の破傷風罹患肉牛頭数は、何と「426頭」と70年代より2倍以上に増加しているのです。2011年に至っては、届出されているのみで、100頭もの牛が破傷風に感染した報告が、公表データに記載されています。

 

 以外にも、獣医(医療)技術や知識が、『牛書』発行当時より明らかに発展している現在でも、牛の破傷風(つぐい)は、結構脅威の感染症であることがわかります。

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