第5番「痿越(みたて)」という起立不可

 牛は種類によって重さは違いますが、体重400kg以上を超える周知の通り巨体です。その牛が、病気などで起立不可になり地面に座り込んだ状態が続くと、巨体が却って仇となり、後肢が身体に圧迫され続け、肢の筋肉と神経が麻痺状態となり、この状態が改善しないと、遂には後肢が壊死してまいます。こうなれば最早お手上げ状態です。
 筆者は、旧職場で特に乳牛の飼育に従事しておりましたので、起立不可となる重度な病気・ダウナー症候群(低カルシウム症や急性乳房炎)によって淘汰犠牲になった乳牛を何度も見た事があります。この様に、現在の牛の世界でも「牛が起立不可」になる病気とは厄介なものですが、それは昔も同じであったようであり、前記事で、牛の漢方医学ハンドブックとして紹介させて頂きました『牛書』でも牛が起立不可になった場合の症状およびその対処方法を書き記しています。

 

 牛書は、当時(江戸中期)の牛が罹りやすい病気を27番の番付(但し最後の番は馬の鍼治療)で紹介され、現在でも飼育されている牛の病気にも相通じる症状が記されており、読んでいて、古今を問わず飼育者は、(現在は食用、当時は使役といった飼育目的は違うとはいえ)、牛の病気に悩んでいた事がわかります。
 牛書内で最初に起立不可の病気紹介が登場するのは、第5番の『痿越(みたて)』という番付からになります。「痿」とは何とも見慣れぬ難しい漢字でございますが、「しびれる(痺れる)・衰える」と同義であり、そしてここでの「越」という意味は「牛の疾患の総称」ですので、つまり痿越とは、『牛の肢が痺れた(衰えた)疾患について』という意味になります。しかし、牛の肢が衰え起立不可になる病気が5番という早い段階で紹介されているのを見ても、当時でも牛の起立不可の病気に対して注意が払われていた事がわかります。今回は、この第5番・痿越について紹介させて頂きます。

 

 痿越の症状については、本文中には以下の通りに記されています。

 

『痿越になると、頭を下げて、反芻しない。後肢は脱力して引きずるようになる。重度のものでは腰麻痺となる。』(日本農書全集60内に収蔵されている牛書の現代文を抜粋)

 

 筆者の乳牛飼育の経験上に拠って上文を読めば、分娩直後の乳牛が罹患しやすい「低カルシウム症」とほぼ同様であります。『頭を下げて、反芻しない』というのは同じであります。牛書は、飽くまでも乳用牛ではなく使役牛を対象に記した書物ですが、現在の乳牛疾患にも症状が同じというのは、どんなに時を経て、改良が進み、新品種の牛が誕生しても、やはり同じ生物であるという事を感じています。(当たり前だと言えば当たり前の事でもありますが)

 

 次に痿越に対しての治療方法も当然記載されてあります。現在では、血管・筋肉注射での薬剤治療が主となっていますが、勿論当時は、その様な薬剤が無いので、漢方薬の処方が載っています。しかも下半身(後肢部)のしびれのみの処方だけではなく、上半身(前肢部)のしびれの漢方処方も記されているのが、面白いです。牛が前肢をしびれさせるという事は滅多にないのですが。
 痿越の処方も一応以下の通りに紹介させて頂きます。

 

・『当帰(せり科・ホッカイトウキの根)・芍薬の根・地黄(ゴマノハグサ科)・忍冬(スイカズラ科)・優曇華のこぶ(うどんけのこぶ、クワ科のいちじくの枝に寄生したラックカイガラムシによってできた瘤)など他6種の生薬を煎じて牛に飲ませる』

 

上記の紹介は、僅か一部であり、とにかく一つ一つ覚えるのが面倒なくらいの沢山の生薬を調合し、それを牛に経口投与させます。現在でも、人間用・動物用問わずの薬品名やそれらに含まれてる成分および効用などを覚えるのは大変ですが、当時の生薬名や効用を覚えるのもとても大変であったことが、筆者は(月並みの感想ですが)、今回の痿越の項を読んでつくづく思いました。

 

 実は、牛書内にもう1つ他に、牛の起立不可の疾患について記載されていますので、こちらの紹介は、また後日にさせて頂きたいと思っております。もし良かったら、ご興味のある方は、今度もお読み下さいませ。

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