神に献納する馬、「神馬(しんめ)」が元祖

 筆者がこの記事を執筆しているのは、2017(平成29)年の1月上旬であり、つい先日、新年を迎えたばかりでございます。この記事をお読み下さっている皆様の中には、寺社に初詣に行かれ、本殿で様々な祈願をなされ、今年の御守や破魔矢をお買い求めになられた方もいらっしゃると思います。また、2017年は酉年ですので、主にニワトリの絵が描かれいる『絵馬』もご購入され、そこに成就したい各々の願い(「志望校合格」や「恋愛成就」等々)を書かれ、絵馬所に奉納された方もおられるではないでしょうか?今回は、皆様も、つい先日、お買いになり奉納されたであろう、その『絵馬』の誕生経緯について少し触れさせて頂きたいと思っております。

 

 それなりの規模の神社に参詣すると、必ずと言って言い程、『絵馬』を目にする事があり、我々現代人にも馴染みのある物であります。現在の絵馬の一般的な「つくり」としては、小さい五角形(家)型・四角形型の木板であり、表側に当たる面には、動物をはじめ、寺社が所在する地に所縁がある歴史上の人物などの絵画であり、裏面は空白になっており、そこに自分の願い事と名前を書くという形式になっています。また最近では、人気アニメやゲームの関連地にある寺社では、その登場人物が描かれた絵馬(「痛絵馬」というらしいですが)も販売されている場合もあります。以上の様に、増々、絵馬の種類の多様化が進んでいますが、そもそも『いつの時代から、どの様な経緯を経て、絵馬が奉納されるようになったのか?』という事を探ってゆきたいと思います。

 

 現在、日本全国では大小の規模や時期を問わず、祭り(神幸祭)が催され、その折に、祭りの風物詩の1つとして、『神輿(みこし)』が登場しますが、神輿の存在意義は『神様の乗り物』という神聖なものである事は周知の通りですが、その神輿が登場する以前の古代(奈良時代)は、『馬こそが神様の乗り物』とされ、馬が極めて神聖視されていました。そして、はじめは朝廷や有力者などが、国内の平穏無事などを祈願する神事の際には、寺社に対して『神様に馬を献上する事(献馬)』が行われ、神様の馬として寺社に納められた馬は『神馬(しんめ)』として大切に飼育されました。
 孫引きになって恐縮なのですが、「図説・馬の博物誌 末崎真澄氏 編(河出書房新社)」の書内にある項目「絵馬」(岩井宏實氏 著)の文を拝借させて頂くと、既に第10代天皇と伝えられ、神話の域を脱しない崇神天皇(3世紀〜4世紀頃と伝えられる)の時代から、既に常陸国(現・茨城県)に鎮座する鹿島大明神に献馬が行われており、平安初期に編纂された史書「続日本記」にも、多くの神馬献上の記事が見えるそうです。以上の様に、馬が使役や権力者の乗用目的以外に、当時の人々によってどれ程、大切にされていたかがわかります。

 

 神馬献上が盛んに行われていたと伝わる古代ですが、当時から馬は非常に貴重な動物であったので、本物の生馬を寺社に献上できるのは、財力と権力を持った朝廷や有力者といった一部の人々のみでした。その同時期に、本物の馬を寺社に献上が不可能な人々の間で盛んに行われたのが、「馬形」を献上するという行動でした。

「馬形」を生きた馬の代わりとして献上する

 現在でも神社の境内の中には、銅や木形で造られた「馬像」が置かれているのを見かけたりします。筆者も幼少期に地元にある神社を訪れた際に、石造土台の上に立派な(多分銅製の)馬像が安置されていたのを覚えています。その頃の筆者は、この馬像がどういった目的で鋳造され置かれていた知る由もありませんでした。ましてや知ろうともしませんでした。これが神様がご騎乗されるための「神馬」役として存在しているという事が漸くわかったのが、つい最近の事でございます。

 

 本物の馬を献上不可能の人々が、「馬の形をした像を神(寺院)に献馬する」という風習も既に、奈良時代初期にも存在していた事が伝わっております。また先出の「馬の博物誌 絵馬の項」(以下、本書)を参考させて頂くと、奈良時代初期(8世紀初頭)に成立したと伝わる現在の長崎県・佐賀県(肥前国)の地誌を著した風土記「肥前国風土記」には、下田村(現・佐賀市大和町)の土で以って、馬形を造って、山の川上に荒ぶる神を祭って、その神の荒ぶりを鎮めた記事が掲載されており、生馬の献馬を多く紹介している史書「続日本記」でも、8世紀中期にも馬形を献上する記事が紹介されています。更に本書を参考させて頂くと、土製馬形から更に木製馬形が誕生し、これらの木馬が神馬として寺社に献上される様になり、現在でも世界遺産で高名な厳島神社などに、鎌倉時代の木製馬形が安置されている事も書かれてあります。本書内では詳細には紹介されていませんが、近世以降も木馬の献納が盛んに行われたらしく、筆者が調べさせて貰った中で好例と言えるのが、これもまた有名な香川県の金毘羅宮でも江戸時代に讃岐藩主・松平頼重(時代劇で有名な水戸黄門の兄)によって献納された木馬とそれを安置する木馬舎があります。(最も金毘羅さんには、木馬以外にも銅馬どころか、本物の神馬も飼養されていますが)

 

 本物の馬から土製・木製の馬形を神馬として献馬するという変移を紹介してゆきましたが、生馬や馬形も献馬できない人々が、木版に馬の絵を描き奉納するという『絵馬』が誕生してゆく事になります

『絵馬』の誕生とその隆盛

 『絵馬』を神様に奉納するという風習も既に、奈良時代から始まったと言われ、浜松市の伊場遺跡や東北の山形県や秋田県の遺跡からも絵馬が出土しています(本書内より)。今記事の冒頭でも述べさせて頂きましたが、現在では馬以外の動物や人物(歴史上の偉人やアニメキャラ)が描かれた絵馬が存在しますが、それでも、それらが「馬の絵、絵馬(えま)」と呼ばれるのは、元祖に描かれた動物が『馬』であったからであります。

 

 現在の様に、絵馬の多様化がはじまったのは、茶道や華道、日本庭園といった日本独自の美文化が開化した室町中期頃からだと言われ、馬以外の図柄や形状も多様化してゆきました。この頃に大型(扁額式)の絵馬が誕生したと伝えられます。更に織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者に拠って、日本文化が洗練されていった安土桃山時代には、先の2英傑の庇護の下、急成長を遂げた画家プロフェッショナル集団(狩野派・長谷川派・海北派・別所派など)が、競って大型絵馬を作成して寺社に献納し、これを展示する絵馬堂も建立され始めました。これが大人気となり、絵馬堂には当時の一流画家集団が描いた絵馬を観覧する人々がいたそうです。より素敵な絵馬を描こうとするプロの画家集団が互いに切磋琢磨され、より技量が高まり、その集団の手によって誕生した洗練された絵馬を民衆が観る事によって、美術に対する洞察力も高まり、桃山文化の躍進の大きな機動力となってゆきました。

 

 現在の我々の様に、小型の絵馬を奉納するという風習は、国内に戦が絶えた平和な江戸時代から隆盛を極め、当時の人々も「家内安全」「商売繁盛」「無病息災」などの願いを込め、寺社に参詣し絵馬を奉納していました。そして、室町中期から多様化された絵馬は、更に多様化を極め、神仏像・干支の動物・祭具が描かれた絵馬・和算家が奉納する絵馬(算額)・船乗りが奉納する絵馬(舟絵馬)が登場し始めます。かの世界的にも有名な浮世絵師・葛飾北斎も絵馬を作成しており、日本神話に登場する神・須佐之男(スサノオ)が悪病をもたらす神々を退治する画が描かれた絵馬「須佐之男命厄神退治之図」がそれになります。
 北斎氏が描かれる絵馬も素敵だと筆者は思いますが、中でも興味が惹かれたのが、本書内でも紹介されている「乳の出ない母が治るように祈った小絵馬」「子供の月代剃り(いわゆる髪結い)嫌いが治るように祈った小絵馬」といった庶民の切実な悩みが描かれた絵馬です。その時代の庶民の風習を知れる1つですので、何とも好きであります。

 

 上記の様に、江戸時代から現在と同様に、十人十色の願いが込められた様々な絵馬が存在していたのであります。この世の中に存在する万物には深長な歴史が刻まれていますが、皆様が目にする絵馬もまた深い歴史が存在しているのであります。