騎馬武者という存在
歴史好きの1人でもある筆者は、2016(平成28)年のNHK大河ドラマ『真田丸』を毎週欠かさず見ていますが、同番組のオープニングを見ていると、そのクライマックスで、馬上姿で朱色の具足(鎧兜)で身をかため、長い馬上槍をかざした真田信繁(幸村)が、有名な真田赤備騎馬軍団を先頭で率いて、果敢に突撃して来るシーンがあります。ミーハー感が強い戦国史ファンの筆者としても、赤備騎馬大軍団の先頭に立ち、勇ましい大将姿である信繁(幸村)の格好良さに興奮してしまいます。あのシーンを見て筆者の様に興奮した方はいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、実際に大河ドラマの様な、部隊内の全兵士を騎馬兵で編成し、敵に突撃してゆくという戦いはしていたのか?と言うと、残念ながら、皆様が味わったであろう高揚感に水を指す行為で申し訳ないのですが、古来より日本では一つ部隊あるいは全軍団を騎馬武者一色に編成し戦ったというのは、皆無に等しいのです。
つまり大河ドラマ真田丸のオープニングで登場するあの騎馬大軍団は創作(架空)であります。ただ、これは飽くまでも筆者の推測でございますが、信繁最期の大舞台・大坂夏の陣で、彼の持前の1つである奇襲力(機動力)を最大限に生かして、一時的ながら兵力が圧倒的に勝る敵方の徳川軍の奥深くまで斬り込んで、徳川家康を窮地に追い込んだ程の大健闘をしたので、信繁は少数の騎馬兵団を編成し、錐の如く一点突撃を行い、大軍の徳川軍団に穴を開けていった可能性は否定できません。信繁は、古代より朝廷の官営牧場(牧=まき)が多くあり、馬生産(育成)が盛んであった信濃国望月や禰津付近の出身者(厳密に言えば現在の長野県上田市真田町)であったので、騎馬兵の長所、優れた機動力を活かした奇襲戦法を知っており、それを大坂夏の陣で活かした事が考えられます。
繰り返しますが、元来、日本では、騎馬武者のみを集団化した部隊(後世でいう騎兵隊)というのは、皆無に等しいものでした。日本史の表舞台に武士が登場した鎌倉時代から、彼らが最も光彩を放った時代・室町時代後期の合戦に登場する軍勢というのは、「騎馬武者(大将・家老・大将側近などの高級武士)」「長槍・弓(室町期以後は鉄砲も追加)足軽(身分の低い徒士・農民兵)」が、組み合わさった『混成軍団』であり、しかも軍の主力は後者の低身分出身者で、騎乗を許されない「足軽兵」となっていました。その最大原因は、ユーラシア大陸に比べ、日本に存在する飼養頭数が少なかった事が挙げられます。よって、馬はとても希少な乗り物として扱われ、上級階級(公家や武家の当主やその家老など)のみ騎乗を許されるものでした。
日本に騎馬武者はいても、騎馬隊はいなかった?
鎌倉期や室町初期の武家(御家人)の普段は、殿様が本拠(御所・御館)に居を構えており、彼の家老や主要家臣は、殿様とは別の領地・城砦を持っていて、彼らはその自分の城砦・領地に住んでいました。つまり殿様に仕える家老たちも、(小規模ながらも)れっきとした『領主様』だったのです。家老や重臣は、自分たち各々の在所に普段住み、そこで田畑を耕し、米(兵糧)を蓄え、優れた軍馬や農耕馬を飼育し、自分が召し抱えている郎党(家人)を合戦に備えて訓練し、己自身も流鏑馬など弓馬の鍛錬をしていました。
そして、いざ合戦!(有事)となれば、各地の在所に住んでいる家老・主要家臣たちは、己の身分(領地の大小・経済力)に合わせて動員兵力を決定し、自分やその一門武士は騎馬武者(部隊長)となり、彼らの郎党(槍や弓を扱う足軽)を束ね、騎馬・槍・弓の小規模混成軍団を結成し、殿様(総大将)がいる本拠へ参集します。その家老や主要家臣が率いて来た小規模混成軍団を統括するために、殿様が総大将となり、小規模混成軍団を寄せ集めて、大規模混成軍団を編成して、合戦に赴くという仕組みとなっていました。有名な『いざ!鎌倉!』という言葉(出典は、謡曲:鉢の木)は、上記の仕組みを一言で表現したものなのです。因みに、本拠に住まう殿様は、御館(おやかた)にいる方という意味合いを込めれ、家臣達からは『御館様(おやかたさま)』と尊称されていました。更に御館様について述べさせて頂くと、関東御家人の頂点に立つ源頼朝は、鎌倉の大倉御所に住んでいたので、周囲から『御所(ごしょ)』と呼ばれ、同時代の奥州藤原氏の3代当主・秀衡は、御館と書いて『みたち』と呼ばれていました。
少し時代が降り、戦国時代の甲信越の武田信玄軍・上杉謙信軍を双璧に、関東の北条氏康軍、中国の毛利元就軍、九州の島津義久軍といった当時の各地方最強軍も、上記の鎌倉・室町と根本的に変わらぬ、多数の家老(小領主)たちが率いる小規模混成軍団が合成されていた軍団であり、それが一般的な軍形式でした。つまりは、槍・弓・鉄砲・馬で構成されている軍団であり、騎馬武者のみで部隊を構成するという事は根本的に不可能な状態だぅたのです。
もし、殿様(総大将)が、家老たちに「俺は、騎馬専一の部隊を作るから、お前たちが率いてきた騎馬武者を俺によこせ」と命令し実行したら、合戦での命令系統は支離滅裂になり、自軍は戦う前に自滅してしまいます。何故ならば、騎乗している者が家老や主要家臣のみであり、彼らが殿様の言われるままに、騎馬隊士になったら、家老たちが率いて来た郎党(足軽)は、命令を出してくれるリーダー(部隊長)を失った置き去り状態であり、軍で最重要項目である組織的機能が喪失してしまう事を意味しています。
以上の問題発生可能性がある意味でも、騎馬専一の部隊を作り出す事は困難であったと思われます。もしかしたら読者の皆様の中には、『ちょっと待て!戦国時代には、武田信玄が率いた有名な無敵・武田騎馬大軍団があるじゃないか?』というご意見をお持ちになられている方もいるかもしれませんが、最強の武田軍の主力は、槍や弓の足軽部隊が約80〜85%であり、騎馬の割合は、全体の20%位という少数となっています。
武田軍内で、騎馬大軍団は到底不可能な状態ですが、ただその騎馬少数中で、総大将である信玄自身が動員可能な騎馬武者(信玄の側近衆や斥候騎馬兵・百足衆)を小部隊化にして、撃破した敵の『追撃専用部隊』として利用していた事は考えられます。これが無敵・武田騎馬隊の真相ではないでしょうか?武田軍に負けて、戦う気力も無い逃げ腰の敵兵に対して、俄然、自分達を追撃してくる武田の騎馬隊。
敵は武田騎馬武者に戦慄したに違いなく、その状況の中から武田騎馬隊の『無敵伝説』が誕生したと筆者は思われてなりません。つまり、戦国随一の名将と謳われる武田信玄は、少数で自身で動員可能の騎馬武者集団を、『勝てる合戦のみ導入し、そこから武田騎馬隊不敗伝説を創り上げた』という結論になります。これも限りある少ない資産(馬)を最大限に活かした立派な経営戦略と言えるのではないでしょうか。尤も、武田信玄の場合は、戦う前には用意周到に準備を行い、自力を蓄え、諸侯に勧誘政策や情報外交戦略を可能の限り施し、敵を内部から崩壊させ、自分(信玄)が必ず勝ち、合戦後の採算が合うと決まった時にしか合戦を仕掛けなかった人物であったので、彼の率いる騎馬武者をはじめとする甲州武田軍団は無敵だったのです。
因みに、大河ドラマ「真田丸」の主人公である真田信繁(幸村)の真田一族は、祖父・幸隆(幸綱)や父・昌幸、叔父・信綱と昌輝は信州の中小豪族であり、武田信玄の有力家臣の一員となって、信玄の優れた戦略戦術を濃厚に受け継いだ一族でした。特に信繁の父・昌幸は、若年より信玄の側近として仕え、信玄の影響を大きく受けた事は有名な話であります。昌幸とその次男である信繁の芸術的な戦術能力は、信玄から受け継いだ遺産であったかもしれません。
今記事の冒頭で述べさせて頂いた通り、大河ドラマのような、大多数の騎馬軍団が敵に突撃してゆくという事は創作であり、この部隊編成は、後年の近代軍隊内の「騎兵」の分類に入ります。それが日本で本格的に創設されるのが、西洋軍隊制度が導入された明治時代以降であり、その騎兵の創設に尽力した1人が、「日本騎兵の父」と称せられる陸軍軍人・秋山好古でした。
次回の記事では、「騎兵」について少し紹介させて頂きたいと思っております。
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