『猿は馬の守護神』と伝えられる

 「猿」『馬』という組み合わせは、何とも不思議であります。
猿は、物語の世界では、「カニ(さるかに合戦)」や「犬・雉(桃太郎)」といった他動物と絡んでいることは有名であり、方や馬では、人間との関わりが深い物語が多く存在しています。出典はモンゴル民話であり、日本の小学校教科書にも採録された『スーホの白い馬』や英国の女性小説家・アンナ・シュウエルが唯一執筆した名著『黒馬物語』が、その好例と言えるでしょう。

 

 物語上、あまり接点が見られない猿と馬ですが、実は宗教上でとても密接に関わっていたのです。それが今記事タイトルの通り、『猿は馬の守護神』であったという事です。そして、この宗教上から派生した曲芸が、90年代に一世風靡した日光猿軍団に代表される『猿まわし』であります。

 

 何故、猿が馬の守護神になったかという理由でありますが、(有難い事に)以前の記事で何度か紹介させて頂きました馬の飼育方法と厩舎の造り方の古書『厩作附飼方之次第』に、しっかりと猿が馬の守り神になった経緯が記されていました。その説明文@が以下の通りであります。

 

 @『厩舎をつくったときに猿を舞わせ、また、猿の絵を描いて掛ける事があるが、その本来の意味を調べてみた。昔、晋の大将軍・趙固の乗っていた馬が急に死亡し、将軍は非常に悲しんだ。郭璞(かくぼく)という人がそれを聞いて、「私が生き返らせよう」といって、従者数人に竿を持たせて東に30里行って、そこで一匹の獣をとらえた。姿は猿のようであった。連れてきて馬の前に置いたところ、その獣は鼻で馬を吸った。すると、その馬はたちまち生き返って立ち上がり、身ぶるいをした。将軍は非常に喜んだという。この故事から、厩舎に猿を置くようになった。』(農文館 日本農書全集60巻 厩作附飼方之次第 文中より)

 

 上記の逸話は、スクウェア・エニックス(旧 エニックス)の人気ゲーム「ドラゴンクエスト」内でプレイキャラクターの1人が死亡して、街の教会に行ったら蘇生するというファンタジー要素を彷彿させますが、この逸話にも出典がありまして、4世紀当時の中国王朝・東晋の政治家であり文人でもある干宝(かんぽう)が著した志怪小説(後に伝奇小説と呼ばれる)『捜神記(そうじんき)』の第3巻6に、郭璞が趙固の馬を猿を使って、生き返らせる物語が書かれています。いくら伝奇小説にある逸話とはいえ、「猿が馬を蘇生させ、後世、馬の守護神に祀りあげられるようになった」のは、何とも興味を惹く事柄であります。

 

 実は、『厩作附飼方之次第』では、もう一説、猿が馬守護神になった理由を紹介しています。それが以下の説明文Aになります。

 

 A『猿を「山父」といい、馬を「山子」という。それで父子の関係があるため、厩舎に猿を置くという。また一説に、馬櫪神(ばれきしん)という厩舎の神がある。その形は両足にせきれいと猿を踏み、両手に剣を持っている。中国の宋の時代から馬の守護神とされている。この神が踏んでいるのが猿であるので、猿を描いて、馬神を祀って呼び寄せる儀礼にするといわれている。いずれも故事による儀礼である。』(同書 文中より)

 

 「猿を山父、馬を山子」という親子関係に置き、猿を馬の守護神に置かれているという説は、室町中期(1445年)に、僧・行誉によって著され、事物・漢字の起源などを紹介した辞典『?嚢鈔(あいのうしょう)』、何とも難しい漢字で書かれた書名ですが、その第1巻70番『馬守事:猿(せい)を馬ノ守リトテ馬屋ニ掛ルハ如何』の冒頭に、『猿を山父と称し、馬を山子と云う・・・』と書かれてあるのが原典となっています。また一方では、馬櫪神(別名:馬櫪尊神)という中国伝来の厩(馬)の神が、猿とせきれいを使者としていた故事に倣い、日本でも猿を厩舎の守護神となった事も紹介されています。
 実は、安土桃山時代に中国(当時は明朝)の本草学者・李時珍が著した本草学の大書『本草網目』の第50巻・畜類の馬編にも『猿を厩に繋げば、馬病を避ける』という文が載っており、医学書である本草網目にも猿と馬の緊密な関係が紹介されています。因みに、この本草学は、無類の健康オタクでも有名な徳川家康も愛読しており、彼の晩年の趣味の1つとなった製薬作業の発端になったと言われています。

厩舎建設に行われた『猿まわし』

 先述の『厩作附飼方之次第』の、『厩舎をつくったときに猿を舞わせ・・・』という文を紹介させて頂きましたが、つまりこれは現在の『猿まわし』となります。
猿まわしが行われるようになったのは、武士が台頭してきた平安末期〜鎌倉時代と言われており、鎌倉幕府の公式記録書というべき「吾妻鏡」にも、朝廷と日本の政権争奪戦というべき大決戦(1221年 承久の乱)に勝利し、鎌倉時代の最盛期である1245(寛元3)年に、御所(大倉館)にて、将軍・執権の御前で、猿まわし(猿舞)が行われた事が載っています。因みに、殆ど同時期の史料に、時宗派開祖の一遍上人の布教活動絵画記録「一遍上人絵伝(国宝)」がありますが、この中にも厩舎の中にいる馬の隣に、猿がつながれている描写があり、厩舎の守護神として猿が飼われている、当時の風俗風習がわかります。

 

 時代が下り江戸時代になると、「一遍上人絵伝」で見られるような、「厩舎に猿を繋いておく」という厩猿信仰・風習は徐々に廃れていきましたが、その代わりとして、猿まわしが、『厩舎の厄払い(厩祈祷)』として大いに栄える事になります。その証拠として、日本全国の地方城下町・村々に『猿舞』『猿屋』が点在していました。
 当然、それらを運営する『猿まわし師(猿飼)』もおり、当時を代表とする名門大名である徳川将軍家・米沢上杉家・彦根井伊家・加賀前田家といった庇護を受け、各地の武家を巡り、猿まわしを行っていました。武士にとって馬は、有事の際は軍馬として、平時の際は(高い)身分の象徴として、大切な動物であったので、厩祈祷は毎年大事な行事でした。記録に拠ると、徳川将軍家お抱えの猿まわし師は、毎年正月・5月・9月に、江戸の武家を廻り、1年に3回猿まわしを執り行っていました。

 

 上記の様に、江戸期の武家の間で大いに猿まわし(厩祈祷)が行われていたと同時に、庶民の間でも往来や縁日の大道芸として栄えていました。時代劇の縁日シーンでも猿まわしを見世物としている描写をよくみかけますね。しかし江戸時代(武士の時代)が終わると、武家というスポンサーを失ったり、西洋近代化が進むに連れ、人々の厩猿信仰は徐々に薄れてゆき、猿まわし稼業は衰退を一途を辿ってゆきました。
 明治期以降から唯一猿まわし伝統が生き残った(一時期、断絶)山口県(光市)に、1977(昭和52)年12月、俳優の小沢昭一氏の強い推薦が契機となり、当時の光市議会議員の村崎義正氏が音頭取りとなって、猿まわし団体『周防猿まわしの会』が設立され、これ以降、同会は、猿まわしを日本の伝統芸能の1つとして復活に力を入れています。

 

 身振り素振りに愛嬌ある猿が舞う、猿まわしが、実は馬(厩舎)の守護信仰から派生した芸能である事が、世間一般では知られていないために、今回の記事を執筆させて頂きました。