極東島国・日本には遊牧民がいなかった?

 以前の2記事で、日本と海外における馬の去勢史について紹介させて頂きましたが、それらの記事では、「日本では古代〜近世の江戸時代にかけて種牡馬の去勢する概念は無きに等しく、(例外があるにせよ)実際殆ど実施されていなかったのに対し、海外では紀元前より、ヨーロッパ・中東〜中国大陸の広大な範囲で、馬は勿論、牛や豚などの家畜動物全般の種牡去勢が頻繁に行われていた」内容が要点でした。

 

 そこで今回の記事は、表題にある通り、『何故古代の日本に馬の去勢術が無かったのか?』という事について、筆者なりの考えを述べさせて頂きたいと思っております。
 ヨーロッパや中国を含める広大なユーラシア大陸には紀元前より、『遊牧民族』が多く点在していました。西洋にはフン族、中東にはスキタイ族、東には匈奴・蒙古族の遊牧民が特に有名です。彼らは家畜を飼育、それらと共生し、山地や砂漠という難所を乗り越え、草原(家畜の飼料)を得るために諸国を巡るのが日常でした。つまり遊牧民と家畜動物は切っても切れない間柄であり、民族全員が家畜を連れて長大な旅路を無事に行くには、家畜を人に従順に成らしめるための強固な動物管理方法が必要でした。その方法の1つが『去勢術』でした。

 

 食肉として活用されていた牛・羊の種牡に去勢術を施す事によって、血統管理が容易になり、肉にある独特の臭みが無くなり肉質が向上し、旨味も増大する理由で去勢が行われ、遊牧民の大切な移動手段であった馬に去勢を行っていた目的として、『繁殖用馬以外の生殖機能を無力化し、馬の頭数調整および管理の容易化』・『気性を抑えて扱いやすくする』が挙げられます。因みに、この馬に対しての去勢目的は、現在の競走馬育成にも通じる事ですが、寧ろ現代の競走馬育成概念が、古代よりの遊牧民の馬に対しての去勢目的を根幹としているでしょう。

 

 「家畜動物に去勢を行い、彼らを扱い易く仕立てる」という動物管理の下、遊牧民族は家畜に対して去勢を行い、ユーラシア大陸の諸国へ旅を重ねる事によって、彼らの家畜動物管理方法・去勢術だけではなく、騎射術、ズボン着用や乳製品の飲食という文化も、世界各地に定住している農耕民族(それが古代ローマ人であり、漢民族)にも浸透していきました。

 

 しかし、遊牧民族が旅する事なく、去勢術が伝播しなかった国があります。それが四方を海に囲まれた島国・日本でした。

日本に遊牧民が来なかったから去勢術が無かった。

 浪が高い日本海・広大な東シナ海。この2つが多くの家畜動物を連れた遊牧民族の人々の目前に最大障害物として、行く手を阻みました。最もこの日本が四方海に取り囲まれているという地理的理由から、鎌倉〜江戸期には独自の日本文化が発展し、19世紀〜20世紀初頭の列強諸国の侵略(植民地化)が回避された要因になっている事もまた明確です。

 

 兎に角にも、遊牧民は家畜を従えて地続き(大陸)の山地や砂漠は抜くことが出来ても、紀元前や古代当時の造船・海運技術では、海水を超えて日本へ来ることは到底不可能でした。たとえ無理矢理に渡海し来日したとしても、動物の飼育に不向きな多雨多湿な環境であり、島国で国土が狭く、本州をはじめとする島々には山脈・活動火山が多くあり、家畜の飼料となる草地(平野部)が極端に少ない上、その平野部も葦ばかりが生い茂る湿原不毛地帯であったので、遊牧民族にとっては日本は決して垂涎の地ではなかったに違いありません。

 

 上記の日本が持つ地理的環境によって遊牧民族が、遥々大陸から島国・日本へ来ることはありませんでした。そして彼らが渡来する事が無かったので、彼らが所有している羊や独特な家畜管理・去勢術が浸透定着しなかったのも当然の成り行きと言えます。また別の方面では、日本の朝廷内に去勢された男性官吏・宦官が存在せずに、女官が誕生した背景もあります。因みに、漸く家畜動物に去勢術を本格的に導入されるのは、遥か後年、日本が海外の文物を積極的に取り入れる明治時代になってからです。
 以上に考えてみると、地理的環境が決定的な要因となり、日本国内に去勢術が定着せず、ある意味で日本独自の乗馬思想である『気性の荒い馬(牡馬)を乗りこなしてこそ一人前』が生まれたと思うと、地理的条件が与える影響の大きさを感じます。
 もう一つ別の点で面白く感じるのは、遊牧民族が産出した独自文化の一部は、遊牧民文化を修得していた中国や朝鮮の王朝(定住民族)達を経て、日本に伝わり定着した物あるという事です。その好例の1つが、袴(後年のズボン)の着用です。袴は皆様ご存知の様に日本独特の衣装ですが、これもルーツを遡れば、遊牧民が乗馬専用衣装として考案したズボンが起源となっています。

 

 『去勢は、日本に伝来定着しなかったが、袴(ズボン)は愛着された』とまた思うと、日本文化を形成した基盤の一部を筆者は感じます。