エドウィン・ダンはどの様な人物?

 前回は日本近代酪農に貢献した外国人として、『少年よ、大志を抱け』のフレーズで有名なウイリアム・クラークを紹介させて頂きましたが、今回はエドウィン・ダン(1843〜1931)という人物が今記事の主人公となります。
 「日本における馬の去勢史」という記事内でも、日本に馬の去勢技術を導入し近代競馬(馬術)会にも大きな影響を与えた人物として少し取り上げさせて頂きました。彼は、先述のクラーク博士よりは日本国内では知名度が低いですが、クラークとほぼ同時期の明治時代初期に新政府のお雇い外国人教師として来日、その後、北海道開拓使の指導員の1人としても活躍、同地の近代酪農・その他牧畜業、競馬会の発展に尽力し、現在でも国内随一の酪農大国・北海道の礎を築いた人物の1人です。また後に、外交官に転身。米国駐日公使として日米外交の一翼を担い、日清戦争(1894〜1895)での和平交渉成立にも尽力しました。
 以上のダンの日本での酪農業の発展貢献のみに留まらず、米国外交官として国家運営の一翼を担った多方面の大活躍を見ると、日本の未来を担った逸材を教育した偉業を持つクラークとは、また違った功績を持った人物です。寧ろ日本酪農業の発展貢献のみを対象にすれば、クラークよりもダンの方が上かもしれません。

 

 エドウィン・ダンは来日以来、日本を終生こよなく愛し続け、日本人女性と国際結婚をしています。一時期米国へ帰国しましたが、後に再来日、そして1931年、母国に帰ることなく日本で82歳の生涯を閉じています。
 ダンの業績の一部を紹介してゆきたいと思います。

開拓使指導員として初来日

 エドウィン・ダン(Edwin Dun)は、1848(嘉永元)年7月19日に米国オハイオ州チリコシーで、1万5千エーカー(約6000万平方メートル)の大牧場経営をするダン家に誕生しました。彼は長子ではなかったために法律家を目指して、オハイオ州オックスフォードにあるマイヤミ大学に進学しました。このまま行けばダンは牧畜業に従事する事の無い一生を送ったかもしれません。しかし、牧場を継ぐべきダンの長兄・ジェームスが家業を継がず、土木技師を目指して実家を出て行ったために、当時18歳になっていたダンはマイヤミ大学を中退し、家業の牧場を継ぐため父の下で牧畜業を本格的に学び始めた上、同じく牧場を経営していたダンの叔父・ワルターの下でも2年間、肉牛の飼育、そしてサラブレッド(競走馬)の育成方法について学びました。
 元々牧場を経営している一家で育ったダンですので、幼少の頃より家畜の世話の手伝いなどして牧場作業の経験があったと思われますが、上記の大学中退後の牧場の仕事で得た知識と経験が、将来の日本酪農の発展指導に生かされる事になったと思います。特に叔父のワルターが経営する牧場で学んだ競走馬育成は、日本の競走馬界にも影響を与える事になったのではないでしょうか。

 

 1873(明治6)年7月9日、ダンは実家や叔父の下で培った優れた牧畜業の経験が買われ、北海道開拓団の指導員(お雇い外国人教師)の1人として来日します。この時はダン1人で来日したのでなく、1人の従者、92頭の牛(ショートホーン)、100頭の羊(サウスダウン)、大型農耕具という大層な御供を連れて、万里の波頭を蹴っての入国でした。
 ダンがお雇い外国人教師として来日した経緯は、当時明治政府の北海道開拓次官の役職にあった黒田清隆(1840〜1900)が、かねてより交流があり旧開拓使顧問であった米国政府農務長官・(1804〜1885)に優れた北海道開拓指導員の派遣を要請され、彼の次男アルバート・C・ケプロン(後に開拓使顧問)が、ダンを推薦したのが起因となっています。
 アルバートに開拓使指導員を薦められたダンは、直ちに了承したと言われています。実は、ダンの実家である牧場が南北戦争による経済不況の仰りを受け、経営困難になっていました。この理由も報酬が桁外れに高い開拓使指導員という役職を受けた1つになったではないかと伝えられています。

 

 

北海道へ移住、近代酪農の基盤創り

ダンが開拓使指導員として来日した明治7年の日本は、明治維新を成し遂げ、近代国家として生まれ変わり、官民一体が凄まじい高揚感を以って殖産興業に力を入れている只中でした。

 

 明治6(1873)年7月9日、大多数の家畜動物と共に横浜港に到着したダンは、1年前に開通されたばかりの鉄道で新橋まで行き、次いで馬車で当時の開拓使出張所であった芝・増上寺に到着。そこで事実上の開拓使責任者・黒田清隆の手厚い歓迎を受けました。そして、2年前の明治5(1871)年に都内に開園した第3官園の主任に就任しました。因みに第1(青山南町)と第2(青山北町)、そして第3(麻布)を合わせた広大な場所は東京官園と総称され、明治政府が開拓使育成および近代農法の推進のために設立した施設です(設計者はホーレス・ケプロン)。
 ダンが主任となった第3官園は、牛・馬・羊を含める家畜動物の育成と牧畜業に携わる人材を育成する機関でした。そこで早速、来るべき北海道開拓のために、家畜動物の飼育・馴致、人材育成に力を注ぎます。特に彼が修めた西洋獣医学とその知識は、当時の日本国内で獣医学の知識や経験を有する人物がいなかったので、後の日本獣医学の発展に繋がる事になります。また同時期に第3官園の設備充実にも尽力しました。
 当時の明治政府は妄信的に西洋文明機器を機能や効能などを検討する事なく、巨額の金額を支払い導入するのが当たり前でした。それはダンが担当する第3官園の設備や大型農具も例外ではなく、畜舎や農具の使い勝手の悪さにダンは呆れ、政府に畜舎の改築・農具改良の助言をしました。ダンは、設備の機能を冷静かつ合理的に判断し、やたら流行(殖産興業)熱に冒され、見境無く大金を使う日本に、水をかけて止めてくれたのです。 またダンは来日して間もない7月16日に、明治天皇や西郷隆盛・大久保利通・三条実美などの政府高官の臨席の下、農具実演を行うという栄誉を得ています。

 

 余談ですが、第1・第2官園は農作物を主体とした機関であり、その主任はドイツ系米国人・ルイス・ベーマー(1843〜1896)という人物でした。ベーマーとダンは直ぐに意気投合し交友を深め、異国の地で強い絆で結ばれた同志となっていきます。ベーマーもダンと同じく、後に北海道へ移住、同地で近代農業面(特にリンゴやホップの生育)の発展に多大な功績を残しました。更にベーマーについて述べさせて頂くと、ベーマーも日本を愛した外国人教師の1人であり、開拓使の勤務期間はダンに次いで2番目に長い物であり、開拓使制度廃止後も日本に滞在し、横浜で園芸植物の貿易商会を設立し、会社経営者としても大成功を収めます。晩年は体調を崩し、1894(明治27)年10月に離日、2年後の1896(明治29)年7月、療養地のドイツ・ブラッケンブルクで他界しました。

 

 明治8(1875)年5月、ダンは北海道亀田郷七重(現・北海道渡島総合振興局七飯町)にある七重農業試験場(明治3年に創設。後に七重勧農試験場)に出張を命じられます。ここでの勤務期間は5ヶ月でしたが、ここで種牡馬の去勢を実施し、日本の近代馬術に大きな影響を与えました。また更に明治5(1872)年、日高郡に創設された新冠牧場(現・畜改良センター新冠牧場)の経営改善案を発案した上、種豚・種牡馬・羊の輸入などの政府に献策し、日本近代酪農の礎を構築する一翼を担いました。特にサラブレッド種(競走馬)の育成に尽力し、これが現在でも知られる『数多くの名馬を輩出した競走馬の生育地・日高』と繋がってゆきます。この偉業と先の種牡馬の去勢技術導入した事が、彼が『日本競馬を創った男』と現在でも呼ばれる所以となっています。
 そしてもう一つ、七重に勤務中にダンにとって生涯忘れられない事がありました。1人の日本人女性・ツル(旧津軽藩士の娘)と運命的な出会を果たします。後に彼女とダンは、当時でも非常に珍しい国際結婚します。この結婚によりダンは日本へ骨を埋める覚悟するようになったと言われています。ツルさんは、残念ながら明治21(1888)年に、最愛なる夫・ダンに先立ち28歳の若さで他界しますが、ダンとの仲は非常に睦まじく、明治11(1878)年に2人との間に娘・ヘレンが誕生しています。

 

 七重での出張を終えたダンは、一時帰京し、そして明治9(1876)年、再度北海道へ赴き、札幌西部に牧羊場、真駒内(現・札幌市南区)に「真駒内牧牛場(後の真駒内種畜場、現在の北海道立農業研究本部畜産試験場の前身)」を設立する事になります。
 この牧場を得たダンは、水を得た魚の如く、北海道酪農・競走馬育成、大きく言えば、日本近代酪農の発展の為に大いに働き出します。即ち、牛・豚・馬(後に新冠牧場へ移行)を飼育するのみならず、約100ヘクタール(100万平方メートル)の飼料畑を開拓、大型農具の使用方法・馬の使役調教の伝授、更に後年、北海道の特産になるバター・チーズなどの乳製品の加工技術を人々に教えました。また潤沢な家畜動物の飲み水、水車の動力水を確保するために真駒内用水開設の発起人になっています。現在でこそ、この真駒内用水の用水としての役目は果たしていませんが、今でも河川として札幌市街を流れています。
 ダンの真駒内牧牛場で、家畜動物の飼育・飼料の栽培・食品加工技術の伝授・用水の開削など八面六臂な活躍が、現在の北海道酪農、近代酪農の礎になっています。因みに真駒内牧牛場は、ダンがこの世を去った(1931年)後も北海道の畜産技術の金字塔として終戦まで存在しました。そして、ダンや開拓使が使っていた牧牛場の事務所は、昭和39年に真駒内中央公園(現・エドウィン・ダン記念公園)内に移築され、ダンの数々の功績を偲ぶため、エドウィン・ダン記念館として改築され現在に至っています。この一事をとって見ても、彼の遺した偉業の大きさがわかります。

 


(ダンが発案した真駒用水。この水で多くの家畜動物を育て、酪農産業の発展を支えました)

 


(エドウィン・ダン記念公園内にあるダンの銅像。仔羊を抱えています)

 

お役御免とダンの晩年

 真駒内牧牛場でのダンの仕事は、明治15(1882)年、開拓使制度が廃止された事によって終了し、お役御免となります。実に9年9ヶ月にも及ぶ開拓使指導員勤務でした。北海道の畜産発展に全てを掛けてきたダンにとっては、開拓使制度廃止は、とても辛い出来事でした。
 お役御免になった以上、母国へ帰らなければならないのですが、日本をこよなく愛し、そして日本人女性・ツルと国際結婚し子宝に恵まれたダンは、あらゆる手を尽くして日本での滞在継続を試みます。この頃より最愛の妻・ツルさんが病気がちになっていた事もダンが帰国を拒む理由の一つであったと言われています。しかしお役御免となった翌明治16年、ダンは後ろ髪曳かれる思いで、病身の妻を日本に残し、娘・ヘレンを連れて母国・アメリカへ帰国します。これがテレビドラマだとすると、切ない悲劇になりますが、悲劇で終わらないのがエドウィン・ダンという人物の魅力になっています。

 

 何と米国へ帰国した翌年の明治17年に、ダンはアメリカ公使館二等書記官という『外交官』として再来日(娘・ヘレンは同伴せず)を果たし、再び妻・ツルさんと暮らせるようになりました。アメリカ政府がダンの人柄と彼の北海道での功績が大いに評価、外交官に一員に任命したのです。この強運ぶりもダンの魅力をより光彩を放っています。外交官となったので、開拓使指導員時代の暮らしとは全く違ったものでしたが、ダンは忠実に職務をこなし、昇進を重ね、明治26(1893)年4月4日、外交官のトップである全権公使(現在の米国駐日大使)になります(4年後に退任)。日清戦争の和平工作に尽力したのもこの全権公使時代になりますが、このダンの活躍に、時の外務大臣・陸奥宗光は深く感謝しています。また当時の外交の花形的存在であった鹿鳴館での晩餐会にもツルさんを連れて出席していたと伝えられています。

 

 ダンが日本へ再入国した4年後の明治21(1888)年、妻のツルさんは肺結核でこの世を去ります。最愛の妻の最期を看取れたのは、ダンにとって不幸中の一際であったと思います。ツルさんを失った1年後、周囲の強い薦めもあり、ダンは元旗本の中平次三郎の妹・ヤマと再婚します。彼女との間に、次男で音楽家のジェームス・ダン氏(1898〜1950)を含める4人の男子に恵まれますが、四男・アンガスが誕生した時が難産であり、それが原因で後妻のヤマさんも明治38年に、夫・ダンに先立ってこの世を去ります。

 

 明治30(1897)年に全権公使を退任。その後、米国の石油会社・スタンダードオイルの日本支社・インターナショナル石油会社の新潟県直江津工場のオーナーに就任。ここでも忠実に職務を全うし、明治40(1907)年に直江津工場が閉鎖された際、破格の値段で工場と全設備を、当時、新潟県三島郡を拠点とする日本石油(現・新日本石油株式会社・ブランド名ENEOS)に譲渡しましたが、これが日本石油の発展に繋がる事になります。図らずもダンのこの決断が、現在、街の至る所で見るENEOSブランドに生きているのです。
 またその後に、三菱造船東京本社にも勤務しました。そして、昭和6(1931)年5月15日午前10時30分、エドウィン・ダンは84年の生涯を閉じました。

 

 以上、日本の近代酪農の発展に貢献したエドウィン・ダンを紹介させて頂きました。こうやって彼の人生のあゆみを辿ってゆくと、同業者であり不遇な晩年を過ごしたウイリアム・クラーク博士よりも幸せな人生であったのではないでしょうか。何よりも彼が愛した日本で生涯を全うできたのですから。
 因みに彼の墓地は、最愛の妻・ツルさん・後妻のヤマさんが眠っている青山墓地にあります。