日本近代酪農に貢献した外国人・クラーク博士
今記事では、明治時代を起点とし、現在でも連綿と受け継がれている日本近代酪農に貢献した偉人を『日本近代酪農に貢献した偉人』というシリーズ化として紹介させて頂きたいと思います。勿論、日本酪農の発展に貢献した偉人は日本史上、数多に存在しており、その方々全部を紹介してゆく事は、流石に不可能でありますので、今記事では、筆者が思う4人の偉人に焦点を当てて紹介してゆきます。2人は米国人でお雇い外国人教師、残りの2人は何と軍人を選択させて頂きました。後者の2人は意外と思われるかもしれませんが、実際、小規模ながらも日本酪農発展に貢献した人物であった記録が残っていますので、決してこじ付けでも的外れな選抜では無いと、筆者は確信しております。
今シリーズで紹介させて頂く4人の偉人です。
@米国人・ウイリアム・スミス・クラーク
A米国人・エドウィン・ダン(画像転用元:ウィキメディア・コモンズ)
B陸軍軍人・秋山好古(画像転用元:ウィキメディア・コモンズ)
C海軍軍人、後に内閣総理大臣・鈴木貫太郎(画像転用元:ウィキメディア・コモンズ)
先ずは、明治時代に米国から来日した明治政府お雇い外国人教師2名を紹介させて頂きます。前の記事からこの2名は少し紹介しておりますが、初代札幌農学校(現・北海道大学農学部の前身)教頭にして、『少年を大志を抱け』の名言で有名な『ウイリアム・スミス・クラーク』を紹介させて頂き、その後、獣医師であり日本近代酪農の発展のみならず、日本近代競馬の発展にも大きな貢献をした『エドウィン・ダン』を紹介させて頂きます。
@ウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark 1826〜1886)
1826年7月31日、米国マサチューセッツ州にて誕生。父は医師であるアサートン・クラーク、母はハリエット。1844年には故郷にある名門私立大学アマーストに入学し、1848年に同大学を卒業し、ドイツにあるゲッティンゲン大学に留学し、化学・植物学を学び始めますが、この留学期間中には既に農業教育の重要性にも気付いていたそうです。
成績優秀であったクラークは、1852年には早くも同大学にて化学の博士号を修得し、同年に帰国。母校であったアマースト大学の教授に就任し応用化学だけではなく、植物学・動物学の3つの専門を学生に教える活躍をするようになります。この時期に、クラークの教えを受けた生徒の中で、後に同志社大学を設立する新島襄が留学生として在学しており、日本政府にクラークをお雇い外国人教師として推薦しています。
1853年には勤務地であるアマースト大学に新設立された、化学課・実践農学課の課長に就任、4年間同職を勤め上げた後、マサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校農学部)の学長に就任し、更に農業教育に力を注ぎます。
教育者として、これまで順風満帆な人生を送っているクラークですが、農学校学長の地位を飛び出し(後に復職)、自ら志願してアメリカ南北戦争に北軍側として参戦します。この彼の果断な行動を見ても、只の文人学者ではない事がわかる一点景ですが、この戦争で、彼の教え子も参戦し戦死しています。この参戦体験が、後にクラークが札幌農学校で軍事教練を取り入れた要因となったと言われています。
1876(明治9)年7月、日本政府の強い要請によって、お雇い外国人教師の1人として、同年8月に新設された札幌農学校の初代教頭に8ヶ月という任期として就任します。初代校長は調所広丈でしたが、これは飽くまでも名目上であり、学校を差配していたのはクラークでした。
札幌農学校でもクラークの教育は熱心でした。教え子の殆どは貧しい士族の子弟でしたが、やけにプライドが高い連中ばかりの上、家の経済事情により止む無く農学校に入学したので、当初はクラークに結構反発したそうですが、クラークは辛抱強く付き合い、学生諸君を徐々に教育してゆきました。その中で、ろくに勉強せず毎晩夜遅くまで酒盛りばかりやっている学生達に飲酒を止めさせるために、無類の酒好きであったクラーク本人も禁酒したのは有名なエピソードです。またクラークが主に学生に教えていたのは、アマースト大学と同じく、植物学・動物学、実践農学でしたが、課外授業の植物採取の折に、珍しい植物を高い位置に発見した折には、教頭であるクラーク自らが地上に四這いになり、背中に学生を乗せ植物を採取させたりしました。これらの様なクラークの熱心かつ真摯ある教育態度に、荒くれ者が多い学生はクラークに対して尊敬の念を抱くようになります。
クラークは、農学校施設の強化にも力を入れ、開校早々の開校早々の1876(明治9)年に開拓使札幌官園の一部(現・北海道大学札幌キャンパスの東半分)の移管を受けて農校園を開設しました。その中で、特筆すべき建造物が、クラークの構想に基づき建設された米国式畜舎・『モデルバーン(模範家畜房)』でしょう。どの様な建築構造かと言うと、『最上階から干し草を落とし、それを牛が食べ、牛の糞尿を下に居る豚に与える設計』となります。極めて合理的です。この構造を見た当時の学生及び日本人は、感嘆したに違いありません。この刺激が北海道近代酪農、ひいては日本近代酪農躍進の起爆剤になったのではないでしょうか。
クラーク博士の精神を受け継いだ偉人たち
クラークの日本における農学教育の功績も大きいのですが、何よりも最大功績は、実質8ヶ月という短い在任期間ながら、新興小国・日本の将来を担う人物の育成に大きな貢献したという事が挙げられます。彼の直接・間接的に教えを受けた主な人物(偉人)は以下の通りです。
@農学校一期生
・佐藤昌介(日本初の農学博士 北海道帝国大学初代総長)
・渡瀬寅次郎(教育者 二十世紀ナシの命名者)
・大島正健(言語学者・宗教家 クラークの名言『少年よ、大志を抱け』を後世に伝えた人物)
・伊藤一隆(北海道道庁初代水産課課長。日本サケ・マスのふ化事業および北海道の水産業の発展に尽力。推理小説家・松本恵子の実父、タレント・中川翔子さんの母方の高祖父)
A農学校二期生(クラークから直接薫陶は受けていませんが、彼の教育方針を受け継いだ農学校2代教頭ホイーラーに教育を受けました。とにかく凄い顔ぶれです。)
・新渡戸稲造(入学当時は太田姓。教育者・思想家・国際連盟事務次長、「武士道」の著者、旧5千円札の肖像としても有名)
・内村鑑三(文学者・キリスト教思想家・無教会主義者、。「代表的日本人」の著者)
・宮部金吾(植物学者、エゾマツ・トドマツなど植物の分布境界線「宮部線」にその名を遺しています)
・町村金弥(実業家・政治家。初代文部科学大臣や外務大臣を務めた町村信孝氏の祖父)
・足立元太郎(生糸・養蚕事業の貢献者。第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎の義父。貫太郎の後妻・たか夫人の父。)
以上の偉人達になります。どの人物もその後の日本の将来を背負って立ったお歴々ばかりです。特に直接クラークの薫陶を受けていないとは言え、第二期生の新渡戸稲造は日本紙幣の顔の1つになり、誰もが知る存在であります。そして、上記の列挙させて頂いた人物の中で、あまり周知されていない足立元太郎という方がいますが、彼の学んだ農学精神は、長女のたか、そして彼女の夫になる鈴木貫太郎に立派に受け継がれてゆく事になり、千葉県の酪農発展の礎となるのです。この事は後日「日本近代酪農に貢献した偉人・軍人編」で詳細を紹介させて頂きます。
「少年よ大志を抱け」とクラークの不遇な晩年
1877(明治10)年5月、クラークは任期を終えて横浜から離日、故郷の米国へ帰国しました。帰国に先立つ4月16日、札幌の南24キロの島松駅逓所(現・北海道北広島市島松)で昼食を摂った後、教え子達に別れの挨拶をした。その最後に言ったのが不滅のフレーズ『Boys, be be ambitious like this old man(この老人(私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ)』です。
実は長らくこの言葉をクラークは言っていないと物議を醸し出した時期があったようですが、彼の教え子の1人であった大島正健は自著「クラーク先生とその弟子たち(教文館)」で、クラークとの別れを回想しています。以下がその文になります。
『先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、Boys, be be ambitious like this old man!と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。』(クラーク先生とその弟子たち 文中より)
余談ですが、クラークは帰国途中の折に京都へゆき、同志社英学校を設立し、その運営に奮闘しているかつての教え子・新島襄を訪ねています。その時に同志社に金一封を寄付した上、札幌農学生の指導と援助を依頼しました。米国に帰国したクラークは晩年に至るまで不遇でした。マサチューセッツ農科大学学長を辞任し、その後は知人と共に鉱山経営に着手し、結果的に破産し、会社経営は失敗。その責任を追及され裁判沙汰にまで発展しました。これがクラークには相当堪えたらしく、体調を崩し、心臓病を患い、1886年3月9日アマーストでこの世を去りました。享年59歳。
臨終を看取った牧師に『我が生涯での慰めは日本の札幌にいた8カ月だけです』と言い遺したと言われています。この短い日本滞在の期間で、彼は日本近代酪農の発展・日本の偉人の育成に大きな貢献をした事は間違いないですが、クラーク博士にとってもこの時期が彼の人生で一番充実した時期であった事もまた間違いないようです。
以上、クラークの紹介を終わらさせて頂きます。次回は、もう一人の日本近代酪農に貢献した外国人・エドウィン・ダンについて紹介させて頂きます。