「ブリキ缶詰め牛乳」から「瓶詰牛乳」へ

現在、我々が普段何気なくお店や配達で買っている牛乳ですが、それが詰め込まれている「容器の経緯や歴史」について気になった事はございませんか?筆者の無駄な知識欲?というよりで悪癖の一種となりつつあると過言ではない「物事の経緯(歴史)を知りたくなる癖」で、以前は自分なりの牛乳史記事を執筆させて頂きましたが、今回は我が国の牛乳の容器の経緯について簡単に書いてみたくなり、今現在その最中でございます。「牛乳の容器の経緯についてなんかどうでもよい」と思われる方も多々いらっしゃる事でしょうが、もし内容にご興味があり、筆者の下手な横好きにお付き合い下さいます方がおられましたら、どうぞこのままお付き合い下さいませ。

 

 現代で販売されている牛乳容器としては『紙パック』『瓶(びん)』が中心になっていますが、古代や本格的に牛乳販売が開始された近代はどうであったか?実は現在のような容器で牛乳が販売されるようになるまで様々な経緯がありました。
 古代〜近世などは、以前の記事で書かせて頂きましたが、一般的には牛乳は飲まれず、高貴な身分(貴族など)の間のみで牛乳を利用されるだけあり、そしてそれも液状で飲まれるのではなく、固形状に加工して「薬品」として食していたぐらいであり、牛乳の消費量も極僅かであったことが推察されます。また日本国内では古くから使役牛は存在しましたが、乳牛は江戸時代中後期まで飼養されていなかったので、牛乳の生産量もほぼ皆無に等しかったのではないでしょうか。
 上記の状況が一変するのが、近代の明治時代からになります。国外から乳牛が輸入され、上は明治天皇や大久保利通、下は庶民に至るまで官民を問わず、爆発的に牛乳が飲まれるようになりました。そこで問題になってくるのが、牛乳を売るための容器ですが、当時は牛乳販売店が『ブリキ缶』に入れて配達し、ブリキ製のジョウゴ(柄杓)で量り売りしていました。そして、買い手となる庶民は、欲しい量のみを「丼や茶碗」などで買い取っていました。完全に衛生面で注意が払われて牛乳が販売されている現代から見れば、何とも不衛生な売買方法でありますね。因みに当時(明治12年頃)の牛乳1合(180ml)当たりの売値は、3餞8厘〜4餞。現在の値段に換算すると、200円〜400円となり、高級な飲み物であったことがわかります。
 上記のブリキ缶からの量り売りは、やはり不衛生である事が当時でも判っていたようで、明治18年には既に、内務省令によりブリキ缶での飲用牛乳の販売は禁止され、明治22(1889)年に「牛乳搾取規則」が発令され、『ガラス瓶』での牛乳販売が義務付けられるようになり、同年に東京・牛込にある津田牛乳店が「瓶詰め牛乳」の販売を開始したのが、本邦初の牛乳瓶となります。
 当時の瓶の色は有色でしたが、現在のように透明色になったのは、昭和3年に警視庁により「牛乳営業取締規則(明治22年制定)」が改定され、牛乳販売には無色の瓶を利用する事を義務付けられたのが嚆矢となっています。

 

牛乳瓶に使われた「フタ(栓)」の変移

 牛乳瓶に利用されていたフタ(栓)も時期を経る毎によって変わってゆきました。上記の明治22年に津田牛乳店が日本初の瓶詰め牛乳を販売した折に、フタとして利用されていたのは、ただフタ口に紙を巻いただけでしたが、後にワインのようなコルク栓を経て、明治33(1900)年に内務省により「牛乳営業取締規則」が制定されたを契機に、瓶のフタは「機械口(金具付き)」になりました。そして、大正時代末期になると、機械口からビール瓶のフタの様な「王冠口」が牛乳瓶フタとして利用されるようになりました。因みに「牛乳営業取締規制」より牛乳瓶を高蒸気で高温殺菌されるようにもなりました。

 

 筆者の年代(昭和50年代生まれ)ですと、学校給食などで牛乳瓶に「紙フタ」がお馴染みでしたが、その「紙フタ」が、機械口や王冠口に代わって利用されるようになったのは、昭和初期頃からになります。当初の紙フタの原料はドイツからの輸入フタが主に利用されていましたが、日本国内での紙フタ国産化が制作関係者の苦心の末に、徐々に進行し、昭和7・8年頃に、王子製紙株式会社富士工場と浪花製紙が共同開発の末、現在に通じる優良な牛乳瓶用紙フタが生産されました。因みに、この優良紙フタの製造技術は、当時の鉄道(国鉄)の乗車切符原紙(硬券)製造技術にも活かされたと伝えられています。よって紙フタと乗車切符の厚さが同一であったと言われています。

「紙パック牛乳」の誕生

 時代が経つに連れて、牛乳瓶では「製造費用が高い上、重く、取り扱いにくい」という理由で、今度は紙パックでの牛乳販売が始められるようになります。現在、国内で販売されている紙パック牛乳のタイプは、圧倒的に『切妻屋根型紙パック』ですが、正式名称は『ケーブルトップ(以前はピュアパック)』と呼ばれ、1915(大正4)年、米国にてジョン・ヴァン・ウォーマー氏によって発明され、本格的に普及し始めたのは、1930年代になってからであり、1934年にケーブルトップの特許を獲得していたEX-CELL-O社(エクセロ社、現:ELOPAK社)が販売に成功しています。因みに当初、飲み口はホッチキス止めにされており、開封時にはホッチキス針を外していたそうです。

 

 日本で紙パック牛乳が初めて開発販売されたのが、1953(昭和28)年、株式会社・尚山堂により紙コップ製造技術を活かして開発された、「紙瓶」や「角形紙容器詰め」でした。当初の防水措置としてワックスが使用されていましたが、後に紙自体にポリエチレンをコーティングする技術が導入され、現在に至っています。
 上記の変移を経て、1964(昭和39)年、現在でも牛乳用紙パックを製造している業者の1つ「日本紙パック 株式会社」の前身である十條製紙が、EX-CELL社と技術提携をしたのが契機となり、米国で発明されたケーブルトップ型が日本国内でも販売されるようになりました。同年は日本の戦後復興(経済成長期)の象徴の1つというべき東京オリンピックが開催された年であり、このケーブルトップが同オリンピックでも採用されたりもして、昭和43年からケーブルトップ牛乳パックは本格的に採用されるようになりました。
 折しも国内は、経済成長の真最中であり、都市部への移住化が進み、それに伴って洋食化(トースト・サラダセット)も流行り出し、スーパーマーケットなどが急速に発展を遂げ流通機構が整った事で、牛乳の消費量も一気に増大しましたのが最大の要因となり、ケーブルトップ牛乳パックが社会に浸透してゆく事になり、現在の圧倒的なシェアを誇るようになっています。

 

 以上、牛乳の販売容器が辿って来た道程を筆者なりに探ってみました。先程の夕食で筆者は、カレーライスと瓶詰め牛乳を飲食しましたが、その透明な瓶に入っている牛乳を飲み眺めながら、牛乳容器の歴史の深さも味わっている感じがしました。この記事をお読み下さいました皆様も、牛乳を飲まれる際には、容器を片手に、その経緯と歴史の深さを感じてみては如何でしょうか?