武士に嫌われた牛乳?

 天皇・貴族・宗教勢力が強い勢力を誇った奈良時代〜平安時代中期は、薬物・献上品・供物品として、牛乳(酥)が珍重され、関西〜関東地方の官営牧場にて乳牛が大いに飼育されました。しかし、やがて時代の担い手として勃興し、東日本に独立政権(鎌倉幕府)を創る武士団には、乳牛や牛乳は重宝されませんでした。
 最大の理由としては、武士達が『乗用馬の飼育』に重点が挙げられます。戦に必要な『軍馬生産』です。武家が嗜む武道の双璧を「弓馬の道」と、鎌倉〜室町期まで呼ばれました。つまり弓道と乗馬術です。武士達には馬は必須であったのです。現在でも神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で、疾走する馬上で弓を射る流鏑馬が有名ですが、これが「弓馬の道」を体現した競技の1つです。
 牛は、牛車や農耕用としては活躍する機会がありますが、乗馬の様に人が牛の背中に跨り、自由自在に操るというのは難しいです。恐らく古代の人々の中には『乗牛』を試みたと思いますが、調教(訓練)が進まず、上手く操れなかったと思います。
 「乗れない牛より馬を飼育するべきだ!」と武士団達は思い、彼らの本拠地・関東甲信を中心に、乳牛は姿が消え、代わって乗用馬が飼育されるようになりました。軍馬生産には地理的環境にも恵まれていました。先にも述べましたが、武士の本拠地は「公家政権時代から官営牧場が多数立ち並ぶ甲信」、そして「見渡す限りの関東平野」であり、馬飼育には最適な場所であった事も大きな理由となっています。
 更に付け加えると、(これは飽くまでも筆者の推測で恐縮ですが)、武士は元々は天皇・貴族・寺院の奴隷兼護衛役の様な存在であったため、上層階級の彼らに酷い扱いを受け続けたので、「長袖者(貴族への侮蔑用語)が、好む酥(牛乳)なぞ食えるか!」という上流階級に対して、怨嗟の気持ちという感情も武士団の心中あり、牛を飼育するのを嫌ったのではないかと推測しています。

 

 武士が天皇・貴族に代わり日本の政権主導を握った鎌倉時代以降、京都に拠点を置く天皇・公家の中でも、牛乳・乳製品の製造や献上が廃れてゆき、一時期、鎌倉幕府を滅ぼし、公家主導政権(建武の新政)を取り返した後醍醐天皇により、乳牛飼育・乳製品製造が再開されましたが、僅か3年で政権が挫折し、当時の武家の最実力者・足利尊氏によって室町幕府が開かれ、再度武家主導政権が復活したので、乳牛や乳製品は歴史の狭間に露の如く消え去りました。そしていつの間にか世間では、『牛の血(牛乳)を飲むは不浄である』という気運が高まり、果てに『牛乳を飲むと牛になる』という、我々現代人から見れば実に滑稽な迷信が広まり、牛乳は完全に嫌われる存在になりました。

 

 ジアン・クラッセ(1618-1692)というフランス人宣教師が著書「日本西教史」の中でも、『(日本人は)牛乳を飲むことは、生血を吸うようだと言って用いない。(中略)また牛酪(乳製品)をつくる術を知らないのか、作ろうとしないのか、牛酪(チーズ)もない』
 他の宣教師も1584年に本国宛てにも、『(日本人の)食物(中略)は、牛乳とチーズは有毒なるものとして嫌い、塩のみで味付けする。』という報告を書いています。

 

 宣教師というのは日本を含めるアジア各国を巡り、キリスト教を布教するのが主な仕事ですが、派遣地の社会情勢・民情を細かく調査し、彼らの本国(西欧)への報告書を書き上げるのも重要な仕事の一つでした。つまり特派員、意地悪な言い方をすれば、西洋からのスパイ的な役目も担っていました。余談ですが、近年の史学研究では、有名な宣教師・フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)も西洋からのスパイ説が浮上しています。
 兎に角にも、日本に派遣された宣教師たちは、優れた観察眼によって当時の日本民情を記録しているので、日本人の牛乳忌避は事実のようです。

 

 当時の日本人は牛乳を嫌っていたのですが、逆に牛乳を気に入り、飲んでいた逸話を持つ人物がいます。有名な織田信長(1534〜1582)です。

牛乳を飲んていた織田信長?

 織田信長は徹底的の合理主義に基づき、革新的な政策・軍事制度によって小大名から天下人になった日本史上人気ナンバー1の偉人です。その信長も牛乳を飲んだという逸話が残っています。
 日本を代表する歴史作家の司馬遼太郎氏の名作『国盗り物語』(新潮社)の中で、まだ少年である信長が牛乳を飲んでおり、それをみた彼の父信秀が、「(牛乳など飲めば)牛になるぞ」と信長少年を嗜めましたが、当の信長は『乳を飲んで、牛に本当になるかどうかを試しているのだ』とにべもなく答えている描写があります。
 徹底したリアリズム信長の姿を物語る一つの点景として、司馬先生が書いたものです。ウキペディア等でも、若き信長は牛乳を飲んだという逸話が明記されており、筆者も信長が牛乳を飲んでいた出典史料を探したのですが、未だ見つけられていないのが残念なのですが、無神論・人々の憶測・噂を非常に嫌った信長だったら周囲の牛乳忌避を無視して、牛乳を飲んでいても不思議ではないと思われてなりません。
 余談ですが、信長所縁の岐阜県のゆるキャラRの中に、牛乳を飲むのが好きな信長が牛の姿になり、現代に迷い込んだ「きぜつ丸(有限会社岐雪乳販キャラクター)」がおり、信長牛乳愛飲説が信じられています。
 
(牛乳を飲んでいた?織田信長の像 清洲城公園)

 

 信長が牛乳を飲んでいたという逸話は別として、先述のさる宣教師が1584年(信長死去から2年後)が書いた手紙『日本人は、牛乳と乳製品を毒物の様に嫌う」の通り、信長在世の戦国期は、牛乳と乳製品は嫌われた存在であったのは事実のようです。
 牛乳忌避は、寿司・天ぷら・蕎麦など日本独自の食文化が発展した江戸時代なっても変わりませんでしたが、例外もあり、江戸中期の幕府内で、5代将軍・綱吉の側近・牧野成貞という人物が薬としてチーズをオランダ人から購入したという記録が残っていたり、少し時代が下って11代将軍・家斉も滋養強壮剤としてチーズ(白牛酪)を愛用していたという公式記録が残っているので、官民の間で完全に牛乳拒否をしている訳ではないようです。

 

 時代劇で有名になった江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(1684〜1751)は、「暴れん坊」と称される通り、武術大好き将軍であり、中でも鷹狩・乗馬を非常に好み、特に乗馬に至ってはオランダ人から西洋馬(アラブ系)を買い入れ、安房嶺岡(現:千葉県南房総市大井地区)にあった幕府官営牧場(嶺岡牧)で飼育を開始しました。また同地に、インド産の乳牛雄雌3頭ずつ(後に70頭まで増加)購入・飼育を開始し、牛乳・バター製造を開始しました。これらは飽くまでも馬用の薬品として利用されていたようです。しかし、吉宗が死去した後は、徐々に乳牛飼育も衰退していったそうです。

(白酪牛を導入した、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗)

 

 安房嶺岡は、近世に初めて乳牛が本格的に飼育・乳製品生産が開始され、明治時代には種畜場が設立、近代酪農の指導し当たったので、『日本酪農発祥之地』とされています。因みに現在は、千葉県下の嶺岡乳牛研究所となっており、県内の酪農を支えています。

熱烈な牛乳愛好家・徳川斉昭

 江戸幕末期になると、徳川御三家の一つである水戸藩(これも時代劇でお馴染の水戸黄門の出身地)の当主・徳川斉昭(1800〜1860)・江戸幕府15代将軍・慶喜の実父にあたる人物ですが、熱心な牛乳愛好家であり、1853年藩校・弘道館医学館の隣地に薬園と乳牛牧場を開設し、毎日の朝食に必ず牛乳を飲み、酒のミルク割りも好きであったようで、毎日約900mlの牛乳を飲んでいたそうです。また仲の良かった阿部正弘という人物が病気になったと聞くと、バターをプレゼントするばかりではなく、「もし良かったら自分の牛乳の飲み分をあげるますよ」といった手紙を送っています。
 更に、伊達政宗以来名門の仙台藩に嫁いだ病弱の愛娘・八代姫を心配して、わざわざ乳牛1頭と酪農家1人を付けて仙台藩に送ってあげて、「毎日牛乳を飲みなさい」という親心溢れた手紙を書いています。ただ困ったのが仙台藩です。
 伊達ご家中の皆様は、斉昭のように牛乳好きではないばかりか、世間と同じ様に牛乳忌避者が多かったようで、毎日八代姫に牛乳を献上する前に行われる毒見役を家臣・女中一同、嫌がって大変であったそうです。結局、藩お抱え医師(侍医)の竹庵という人物が牛乳毒見役を無理矢理にやらされたそうです。

 

 余談ですが、2代水戸藩主・光圀(黄門)は、日本人初のラーメン・餃子を食べた人物と言うわれ、斉昭は牛乳に加えて牛肉も大好物であり、息子の慶喜は、当時非常に珍しい豚肉を愛食し、これが後々、江戸での豚肉ブームの火付け役となりました。慶喜はあまりにも豚肉が好きなので、江戸庶民の間で「豚一様(豚肉を好む一橋(慶喜)公)」と呼ばれていたそうです。
 筆者の私見では、水戸藩は儒教(朱子学)ばかり勉強してお堅いイメージがあるのですが、上記の3人を見ると、存外ハイカラでグルメ好きであったのかな。と思ってしまいます。
 
(牛乳大好物殿様・徳川斉昭の銅像)

 

 斉昭・慶喜といった伝統ある幕末セレブ(将軍家ご一門)なら乳牛の飼育・牛乳を飲むといったことは、それほど困難ではなかったようですが、初代駐日米国公使・ハリス(1804〜1878)は、外交官という特別な存在とはいえ牛乳入手に苦労した話題が残っています。
 有名な米国のペリー提督が黒船で来日(1853年)して以来、日本は長年の鎖国体制を撤廃し、1854年には函館と下田を外国船のために開港しました。その下田・玉泉寺にハリスが滞在していたのですが、その地に到着した翌日早々、『ここには山羊がいないのが残念であり、チーズもないと愚痴を日記に書き、後日幕府からの通訳・森山栄之助(多吉郎)に対して『牛乳がないのか?ないのなら山羊を乳入手のために香港から輸入し飼育したい』と談判するなど紆余曲折を得てようやく1858年に、幕府の命令で近隣の村々で飼育されている使役牛の牛乳が、ハリスに献上されるようになりました。ただ筆者が思うに、飽くまでも使役牛の牛乳ですから、今日の様な美味しい牛乳ではなかったと思います。ハリス公使も「日本の牛乳は不味い」と思っていたかもしれません。

(恋しい牛乳を巡り、日本で苦労したハリス初代米国公使)

 

 後々ハリスの牛乳入手の苦労話を教訓とした各国の駐在公使および外交官は、わざわざ滞在先の寺院内で、酪農家を雇って、牛を1頭ずつ飼育し、毎日牛乳を搾らせて飲んでいたそうです。何とも手間がかかるお話であります。またこの暫く後、横浜外国人居留地でオランダ商人・ジョンandエドワルド・スネル兄弟が牛乳販売店と搾乳所を開設し、駐日外国人相手に牛乳ビジネスを展開し、1866年頃には、いよいよ牛乳販売店が誕生します。これが日本人よる日本初の市民向けの牛乳販売店となり、設立した人物が前田留吉という人物です。

近代酪農の父・前田留吉と明治天皇

 1868年江戸幕府は明治政府(朝廷・薩長)によって瓦解しました。これで、古代の朝廷が飼育していた乳牛を淘汰し、馬飼育に力をいれた鎌倉時代から続いた武士政権が崩壊しました。
 明治政府は、産業革命によって急発展を遂げた英国などの西洋諸国に倣い、建築・商工業・軍事・政治体制など万物が西洋化されていきました。つまり文明開化です。農業、特に酪農や牧畜業は、日本では江戸中期に徳川吉宗によって千葉県嶺岡にインド産乳牛を一時期飼育したぐらいで、ほぼ未開拓分野でしたので、酪農産業力を高めるには、外国酪農技術に頼るしかありませんでした。
 現在も乳牛として活躍しているホルスタイン種・ジャージ種などが米国を通して輸入され、「少年よ大志を抱け。この老人の様に」という名言で有名な米国お雇い教師として農業博士・W・クラークなどが、日本新政府の要請によって来日したのは全てこの時期です。殆ど未開拓分野であった日本酪農産業も文明開化を迎えたのでした。

 

 これと同時に1人の日本人、しかも民間人が全く別の手法で、日本近代酪農と牛乳販売産業の開拓に挑んだ人物がいます。それが『前田留吉(1840〜没年不詳)』という人物です。
 郵便制度の開設者・前島密を「日本郵便の父」・山本権兵衛を「日本海軍の父」・本多静六を「日本林業の父」など様々な分野で活躍・近代化した偉人を「〜の父」と尊称されますが、酪農分野で大々的に成功した前田留吉も『日本近代酪農の父』と言っても過言ではないと筆者は思っています。

 

 前田留吉という人物は1840年上総国長生郡関村(現:千葉県長生郡白子町)の農夫の生まれで、後に江戸や横浜方面に職探し目的で出て来た折に、体格優れた外国人を見て、彼らが普段が食している西洋料理(特に牛乳)に商売の道を着目したようで、先述の横浜で牛乳販売店経営を行っていたスネル兄弟に弟子入りして、牛の飼育方法全般・搾乳方法を学びました。そして、1866年に独立、横浜太田町(現:横浜市中区山下町 加賀町警察署付近)で和牛6頭を買い集め、搾乳と牛乳販売を開始しましたが、色々と相当な苦労があったようで、当時は未だ、幕末動乱時期であり、攘夷(西洋人嫌悪)派から誹謗中傷の標的になり、商売が上手く行かなかったり、搾乳の際に和牛が暴れるので、両後肢を木に縛り付けて行っていたそうです。しかし様々な苦難を乗り越え、1868年(明治元年)になると、留吉の牛乳販売事業は軌道に乗り始めていました。その留吉の活躍に注目した機関がありました。明治政府です。

 

 折しも政府も文明開化の下、積極的に西洋技術・文化を導入していた時期であり、外国人が普段飲む牛乳にも着目し、日本国民に牛乳を飲む事を奨励していました。皇居(旧江戸城)外側の雉子橋に牛舎が江戸時代の1792年から開設されていましたが、明治新政府もこれを利用し、勧農役邸と改名して乳牛6頭を飼育していました。その乳牛飼育責任者に留吉が抜擢されました。
 1869年4月、留吉に更なる転機が訪れます。皇居吹上御殿にて、明治天皇(1852〜1912)が天覧の下、留吉は自分が飼育している先述の乳牛を使い、搾乳技術を披露し、破格な栄誉を賜りました。千葉県の一農夫出身者が、官営牧場長となり、天覧を供するという名誉を頂戴したのです。留吉本人も正に昇天しそうな心地であった事でしょう。
 明治天皇という方は、儒学や日本刀観賞など日本芸術を好まれた保守的な人物であったと伝えられています。しかし、明治期を迎えると新政府のスローガン(文明開化)を国民に周知させるため、自ら率先して、自分の髷を切り、洋服を着用され、西洋文化に親しまれる様に努力されましたが、それは食生活にも及びました。
 留吉の乳牛搾乳を天覧された後の1871年には、勧農役邸で飼育されいる乳牛の牛乳を毎日2度飲み始められ、翌1872年には牛肉も食されるようになりました。天皇御自ら進んで、国民が飲食したら『牛になる』と言って忌避していた牛乳・牛肉を食することによって、牛乳を飲む事をアピールされたのです。この効果は絶大で、「明治帝が牛乳を毎日2回お飲みになられ、牛肉も食される」というニュースが「新聞雑誌」に掲載されると、日本国民の牛乳に対しての拒否感情は一気に薄れて行き、日本国内の牛乳消費ひいては、近代日本酪農の発展の一助になった事は確実です。

 

 『日本近代酪農(牛乳)の土台は、前田留吉が築き明治天皇が牛乳の広告塔をお努めになった』事で構築されたのです。

 

因みに留吉は、その後、政府管轄の築地にあった牛馬会社に勤務を経て、芝西久保で再び牧場・牛乳販売を開始し、1875年の牛疫病で乳牛が死ぬと、外国の最新酪農技術・乳牛を導入するために渡米。後に115頭の乳牛を輸入して、芝銭座町12番地(現:浜松町1丁目・福澤諭吉で有名な慶応義塾の発祥地でも有名)で牛乳販売業を始めました。その後、留吉の甥に当たる前田喜代松と共に事業を拡大し、留吉は乳牛(牛乳販売)界の名実共に大御所となり、『新銭座の大親分』と呼ばれるようになったそうです。