明治維新と外国乳牛の導入
歴史小説家・司馬遼太郎氏の名著の1つであり、明治維新後、各国列強の侵略から我が身を護るために、政治・産業・軍事あらゆる分野の近代化(坂の上にある白い雲)を目指し、奮励努力し、遂には日露戦争で西欧大国の1つであるロシア帝国を破り、確固たる東洋の独立国家になるまでの小国・日本と日本人の群像劇を描いた小説・「坂の上の雲」。
司馬先生はその小説のあとがきで、明治維新から日露戦争までの日本の事を以下の様に、言い表しています。
『維新後、日露戦争までという30年は、文化史にも精神史のうえからも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。これほど楽天的な時代ではない。(中略)、明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師など多くが、そういっていたのを、私どもは少年の頃にきいている。(以下略)』(文庫本・坂の上の雲 第8巻あとがきより)
司馬先生が仰る様に、維新後の日本は、国内と西洋の物心両方が、日本国内で初めて本格的に交流し始めた時代であり、政治・経済など様々な分野で、官民一体となって特異な高揚を見せて、様々な発展を遂げた、楽天的な時代でした。その異様な熱気に包まれ発展したのは、今回記事の要点である『乳牛導入やその品種改良』も同様であります。
維新後、本格的に乳牛が国外より本格的に導入されて以来、酪農という分野でも官民一体となって、できるだけ多くの牛乳を得るという目標に向かって、粗悪な輸入乳牛の混入や牛疫など、様々な諸問題を乗り越えて、乳牛の交配・品種改良・現在にも活用されている良質乳牛を管理するための制度・乳牛血統登録の開始など行い、乳量を増やしていきました。維新後の日本酪農産業も、「坂の上の雲」を目指し発展し続けたのです。
維新前の日本酪農産業は、江戸中期に徳川吉宗の命で、白牛(インド産乳牛)を数頭飼育して以来、急発展を見せずにおり、乳量生産力や乳牛管理力が貧弱であったため、国内の酪農産業力を強大するため、明治新政府は、政府が開かれた1868(明治初)年早々から、外国乳牛(種牛)を積極的に輸入し、民間にも外国乳牛の輸入も大いに奨励しました。どれほど政府が乳牛輸入に積極的であったかと言うと、1868年〜1880(明治13)年までに、輸入された外国乳牛頭数、何と『1179頭』にも達しています。しかもその8割が、前田留吉(日本人初の牛乳販売者)などを含める民間人の手によって輸入されており、当時の酪農産業発展方策は、決して政府のみの独り善がりではなく、国民も積極的に政府の方策に参政していた事を物語っている証拠でもあり、官民一体が異様な高揚感に包まれていた事もわかります。
上記の明治初期の14年間に海外から輸入された1179頭の中に、乳用牛・ジャージ種や肉乳両用のショートホーン種などが輸入されました。そして現在、日本の酪農産業の主戦力であり、国内食肉産業にも大きく貢献している『ホルスタイン種』は、遅れて明治22年に初輸入されました。今回は、ホルスタイン種を中心に、乳牛の品種改良のあゆみを紹介してゆきたいと思います。
ホルスタインと近代酪農のあゆみ
今日の日本酪農の全乳牛飼養頭数率実に9割以上を占め、乳牛としては一番多く飼育されているホルスタイン種ですが、国内に初導入されたのは1889(明治22)年であり、これは明治政府や民間の手引きで、他種の外国乳牛(ジャージ種など)が導入された始めた明治初年や同10年代に比べたら遅い時期です。
輸入した当初、政府はホルスタイン種にはあまり関心を寄せず、寧ろ1879(明治12)年に輸入された乳牛「エアシャー種」に日本酪農の将来を担う乳牛として期待し、1900(同33)年に政府奨励乳牛として登録しました。因みにホルスタイン種が政府奨励乳牛として登録されるのは、1911(同44)年という明治時代の最晩年で、この点を見ても、当時の日本が寄せたホルスタイン種への『期待度の低さ』がわかります。
エアシャー種はホルスタイン種に比べると、小柄で泌乳能力もかなり低い乳牛でなのですが、それにも関わらず、当時の日本に期待されていたかと言うと、英国スコットランドという気候が厳しく地味が貧しい地方出身であったため、丈夫で粗食に耐えるという強みを持っており、貧乏で自己飼料生産力が低い上、国土が狭い日本では、最も飼育に適した乳牛と考えられていたからです。
対してホルスタイン種は、泌乳能力は高く、当時から世界各国の酪農産業から公認されていた優秀乳牛の1つだったのですが、そのかわり大柄で大食漢であったので、先述の様に経済・国土両面で低い限度を持つ日本では、『ホルスタイン種の活躍は期待できない』と明治政府に思われてしまったのです。
明治前期の新政府は、諸外国から政治・経済・軍事・教育・文化等、各々の物事の長所と欠点を着実に学び取り、徹底的に吟味・吸収し日本独自の素材に創り変え、自己体制に組み入れていったという優れた吸収力と対応力を持っており、その成功例を挙げると限がありませんが、残念ながら酪農政策の1つである上記の『エアシャー種の飼育優先政策、ホルスタイン種の飼育軽視』という、政府の酪農方策は失敗となりました。
当時の日本の酪農(乳牛の飼育)技術が未だ貧弱であったため、エアシャー種の飼育に失敗し、政府が期待したほどの成果が得られなかったのです。この失敗の影響を受け、それまで政府要請でエアシャー種を飼育・繁殖事業に携わっていた官営・私営牧場など多くは、その事業から撤退。俄然エアシャーの飼養頭数が全国的に減退していきました。
そこでエアシャーの替りとして、注目を浴び始めたのが、エアシャーより泌乳能力が高く、巨躯のホルスタイン種であり、前述と通り、明治44年に政府奨励乳牛として認可されました。しかしこの場合は、政府が各地の牧場や酪農家に、ホルスタイン種飼育を奨励したといより、逆に多くの民間牧場から政府へ、「乳量豊富なホルスタイン種飼育を奨励してくれ」という強い要請があり、下から突けあげられた状態で政府が、ホルスタインを奨励乳牛の登録へ動いたというのが実情のようであり、その事が却って良き結果に結び付きました。
酪農に関して言えば、明治政府(親)は、正に「負うた子(民間)に教えられて浅瀬を渡る」という状態でした。
実は、政府がホルスタイン種を政府登録乳牛にする以前の1900(明治30)年前半頃から、全国の民間牛乳販売業者や酪農家の間では既に、ホルスタインの優秀性に気付き始め、政府の援助を受けず、自らの手でホルスタインを輸入・種付け及び品種改良して、後の酪農産業力の向上に大きく貢献した事が記録に残っています。
この中で最も活躍した人物が、東京・埼玉の首都圏を本拠としていた角倉賀道(すみのくらまさみち)という人物でした。角倉は、経済・人口に恵まれた首都圏という地理的好条件を生かし、1902(明治32)年・1905(同38)年、東京(巣鴨)・埼玉(大宮)に牧場と牛乳販売店を開業して、首都圏の牛乳生産力の向上に貢献しました。 角倉の活躍は更に続きます。1907(明治40年)〜1909(同42)年の2年間に、米国からホルスタイン雌雄牛を通算94頭も輸入し、更なる乳量向上に努め、また自分の牧場で産まれたホルスタインの仔牛を東京や周辺の県の農家へ預ける制度を実施し、農家が牛の飼養技術を修得させ、酪農経営の奨励し、各地へホルスタインの飼養頭数を拡大させました。
輸入したホルスタインの雌雄牛を提供し、地方のホルスタイン酪農振興に大きな貢献をしました。この角倉の大活躍が今日のホルスタイン酪農の基礎を創り上げたのです。事実その後、福島県・宮城県・石川県にある官民両営の牧場や試験場がホルスタインを海外から輸入し、地方の酪農振興に力を入れて始めています。
明治政府によってホルスタインが、奨励乳牛に登録されたと同年(明治44年)5月に、日本蘭牛協会(現:日本ホルスタイン登録協会)が設立され、血統登録が国家単位で管理される事になり、日本酪農産業におけるホルスタイン地位は飛躍的に向上し、大正時代初め頃には、日本国内の全乳牛の血統や品種の正当性を維持するため、『乳牛登録事業』が開始されますが、この頃には既に日本全国の乳牛飼養比率は殆どホルスタインによって占めらる結果になり、大正末期の不況や世界大戦という厳しい条件下を生き延び、現在のホルスタイン種中心の日本酪農が成り立っています。